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多田の日記

普通の人のただの日記

悪口

日記

 ほんまねえ、最近ふとね、「あの人」が消えていなくなればいいなあと思っている自分に気が付いておそろしくなるときがあるねん。

 いや、こんなことを考えたらあかん思うよ。自分ってこんなに性格悪かったんやと残念な気持ちになるし、何より相手と同じレベルに自分を落としているような気がして、ほんま嫌になるねん。

 まあでも、昔引き寄せの法則の本を読んだときに、「強く心から望めば結果が引き寄せられるって」書いてあった気がするし、もっと強く願うのもいいんかもしれへん。まあ実際消えていなくなったら怖くなるやろうけど。藤子F不二雄のSF異色短編にもそんな話があったなあ。

 こんなこと言っていると、「この人性格悪いなあ。差別主義者かな?」て思われるかもしれへんけど全然ちゃうんねんで。僕はパソコンもボールペンも自転車も全部赤にするぐらいの根っからの極左やし、高校の卒業文集みたいなものに「大学に入ったら日本共産党に入党する」って書くくらいの筋がね入りの博愛主義者やねんで(実話)。いや実際に入党はしてへんよ。

 ちなみに卒業文集みたいなものっていうのは、卒業にあたってクラスで制作した冊子のことね。それになんか自分のライフプランみたいのものを書くところがあってん。そういえば、そこには「カトリックに改宗する」とも書いてたなあ。右の頬を殴られたら左の頬を差し出すような人間になりたいって、ほんまに思ってたんやな。多分、これは『塩狩峠』の影響やわ。

 『塩狩峠』読んだことある?あれは最後絶対泣くよなあ。いや、最後だけじゃなくて、途中でも泣く。正直言ってもう話は覚えてへんのやけど、「本当は、おめでとういうべきなんでしょうね」と言って、主人公の奥さん(彼女?)が涙を流すシーンは何度読んでも泣けたなあ。いや、このセリフもあってるかわからないし、どういう文脈でこのセリフが出てきたのかは全く覚えていないんやけど。

 ちょっと話がそれてしまったけど、やっぱそれは無理やわ。それっていうのは、「右の頬を殴られたら左の頬を差し出す」ってことがね。もちろん実際に殴られたわけちゃうけど、ケンカしかけられて黙って耐えることなんてできんわ。今の僕のスローガンは「パールハーバーを忘れるな」やな。

 何かのビジネス書で読んだことがる気がするけど、人って何かしてもらったらお返しに何か返さなあかんと感じてしまうものらしいやん。返報性っていうの?多分レヴィストロースも同じようなこと言ってなかった?未開の社会においても、贈与し合う仕組みがどうたらみたいなこと。詳しく知らんねんけど。やっぱ愛には愛で感じ合うように、敵意には敵意で返したいと思ってしまうねんな。

 だって、ほんましょーもないこと気にして、陰口や告げ口してんねんで。ほんま「女の腐ったようなやつ」やわ。この表現ってフェミニスト的に問題ありそうやけど、こんなにしっくりする言葉は他にないから自称フェミニストの僕も使わしてもらうわ。いや、別に仲のいい友達に愚痴を言うぐらいやったら全然いいと思うよ。人間誰でもそれぐらいするやん。でも、ちゃうんねん。こんだけ僕の耳に色々情報が入ってくるってことは、かなり広範囲に向かってヘイトまき散らしてるはずやねん。陰口が一つ耳に入ってきたら、その裏には100倍の陰口があると思って間違いないっていうし。これは僕が勝手にゆってるだけやけど。

 「お前は全世界に悪口を発信してるやんけ」って批判されるかもしれへんけど、問題ないねん。だって、このブログのアクセス数から考えてこの記事読むんはどうせ3人くらいやろ。しかも、見知らぬ人やし別にええやん。

 結構前から、「あの人」の「自分の理想を絶対視して、そうでない人を批判する」性向は見られたし、その理想から大きくはずれている僕に対して、わざとか知らんけど時々嫌味を言ってきてるのは感じてたよ。そのときは『グレート・ギャツビー』の冒頭の名文を思い出して耐えてたんや。


「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだ。(『グレート・ギャツビースコット・フィッツジェラルド,村上春樹訳)


 でもそろそろこの言葉もきかなくなってきた。こんなに他人に憎しみを感じたのはいつ以来やろ。僕は中学生のときに中島義道にはまってて、『人を”嫌う”ということ』という本を読んだんだよね。それで嫌いな奴は嫌いなままほっておくようにして、関係の改善をしようとしたことがなかったんやわ。要は逃避しててん。

 でも、まあこれだけ悪口書いてるけど、この経験自体は悪くなかったと思ってるよ。だって自分の新しい側面に気づけたし。人間の性格って固定的なものやと考えてしまいがちやけど、そうちゃうねん。例えば本質的に「優しい人」なんていいひんねん。ある状況下で優しい行動する人かいるだけやねん。

 僕自身は自分のことを結構寛容で細かいことは気にしない人間やと思ってたけど、それは僕が付き合ってるのが寛容になれるくらい好きな人ばかりやったということやねん。だって「あの人」に対しては、1円たりとも譲れない気持ちになってるし。こんな気持ちになったのははじめてや。もう何も怖くない。

 まあ憎しみの感情なんか日常生活では感じない方がええんやけど、色々な感情を経験することは、他者や文学作品への共感力を増すことになるのは間違いない思うねん。実際、僕は二十数歳で初めて本気で女性を好きになって最終的に振られたんやけど、それ以来恋愛要素のある映画とか小説とか漫画とか読んだときにずっしりと心にしみ込んでくるようになってん。そのときは、本気で死にたいくらいつらかったけどね。

 実際ね、最近イスラエル問題に関する文章を読んだときに、パレスチナ人のユダヤ人に対する憎悪が少し理解できるようになった気がするねん。こんなこと言って不謹慎や思うよ。同胞や家族が惨殺されてるパレスチナ人と比較することなんて絶対にできひんし。でも、「僕の憎しみでさえこれだけ大きい。いわんや……」と思って、彼らの憎しみの途方もなさをこれまでより少しだけ感じられるようになった気がするねん。共感ってそういうことちゃうんかな。

 イスラエル問題に関する文章っていうと、すごい高尚な本を読んでると誤解されるかもしれへんけど、実際はさくら剛の『中国初恋』やで。

初恋 〜アフリカ・中東・アジア・中国旅行記〜


 『中国初恋』って一言で言うと南アから中国までの旅行記なんやけど、低俗だけどむちゃくちゃ面白い。低俗だけど。僕は気分が沈んでいるときに読むことにしてて、最近気分が沈んでたから読んでん。低俗だけど、僕みたいに低俗な人間にはちょうどよくて、かなり影響を受けてるなあ。今アホみたいに仕事ほっぽりだして途上国に来てるんは、さくら剛の影響がなかりある気がする。ただ、内容が低俗すぎるのでリアルで影響受けてるって公表したことはないけど。

 さくら剛ならこういう行き場のないイライラも笑いにもっていくことができるんやろうなあ。ユーモアのセンスが僕もほしい。


 最後になるけど、こういう愚痴を言える相手がいたらええんやろうなあ。でも、本当に信頼できる人なんてほとんどいないなあて最近思うねん。


以上

 
 なお、上記の文章はイライラが頂点に達したときに衝動的に書き連ねたものであり、今読み消すと大分大人げないなあと思います。今もこんなことを思っているわけではありませんよ。

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